お米の歴史は3000年以上前からはじまった!

お米の歴史は3000年以上前からはじまった!

日本人にとってお米は主食として日々の食事に欠かせないものといっても過言ではないでしょう。食事も西洋化されてきているとはいえ、和食が中心という人は多いようです。そこで、本記事ではお米の歴史に注目して解説します。

日本のお米の祖先は中国

日本では農家でお米の生産をしている家庭も多く、専業農家以外にも一般的な仕事と農業を兼業している兼業農家も存在しています。スーパーやコンビニなどお店へ足を運ぶと、お米コーナーが設けられているのを見かけることが少なくありません。種類も豊富で、艶があるもの、甘いもの、ふっくら大粒のものと好みによって選ぶことができるのも飽きない理由のひとつになっているようです。しかし、お米は元々日本にあったのではなく、外国から伝来したものでした。

お米が最初に生産されるようになったのは今から6000年ほど前のインド、アッサム地方だったといわれています。やがて、インドから西南アジアや西アジアへと伝わり、アフリカを経由して5000年前に中国に伝わりました。日本にお米が伝わったのは3000~2000年前、縄文時代末期頃のことです。中国の長江下流域から九州に、あるいは中国から朝鮮半島に伝わり、そこから日本に伝来したという説などがあります。

それ以前の日本では、どんぐりなど木の実、ひえ、アワが主食でした。日本各地の縄文時代の遺跡には、地下に穴を掘って作った貯蔵庫の中から木の実が大量に保存された状態で見つかっています。お米が日本に伝わった後、弥生時代には水田稲作によってお米の生産量が増えたことから人口も増加しました。縄文時代、日本の総人口は最大でおよそ約27万人、お米を主食にするようになった弥生時代になると3倍近い約60万人だったことがわかっています。

日本人は赤米を食べていた

日本では白いお米が当たり前のように食卓に出てきますが、実は日本に伝来したばかりの頃は赤米だったといわれています。白米が生産されるようになったのは奈良時代以降で、それまでは赤いお米が主流でした。しかし、気候による悪影響を受けにくい赤米は白米が生産されるようになってからも、江戸時代頃まで多く生産されていたことがわかっています。赤米はその名のとおり赤いお米のことですが、しっかり精米すると白米になるので見た目では変わりません。赤米は古代米と呼ばれており、白米よりたんぱく質、ビタミン、ミネラルといった栄養素を多く含んでいることがわかっています。そのため、あえて白米ではなく、赤米を健康食として食べている人もいるようです。

赤米は白米に比べてパサパサとした食感で味が劣り、種もみが落ちやすいことから育てるのが困難な部分もあります。ただ、もともと陸で栽培されていたお米なので水田でなくとも育ち、約3カ月という超早生な点から伝来した頃の人々にとっては扱いやすいものだったといえるでしょう。弥生時代では住居の中に複数の大きめの石を使っていろりを作り、そこにお米と水を入れた土器を乗せ、直接火にかけて炊いていました。地面に穴を開けて土器を挿し、周囲に火をおこして炊くといった方法もあったようです。蒸したり、雑炊にしたりするのが赤米の主な食べ方で、木製のスプーンを使用していたこともわかっています。

赤米は神事の際に神に捧げられていたことから、日本ではおめでたいことがあったときに赤飯を炊く習慣があります。ごはんをわざわざ赤いあずきとともに炊くのは、赤米に似せるためです。お米を年貢として納めるようになると、白米より価値が低いと判断されて赤米を作る量は激減しています。明治時代になると国が白米作りを推奨するようになったので、ますます赤米を見る機会は減っていきました。当時、赤米を栽培していたのは九州の一部や小さな島々のみです。

お米を制する者は日本を制す

稲作は1度に大量に収穫することができるため、3世紀頃には貧富の差が大きくなっています。お米をより多く生産している者は高収入と権力を持つようになり、お米を巡る争奪戦が繰り広げられるようになりました。飛鳥時代では朝廷から国民にお米を育てるための土地が与えられ、もみ米を税金として納めるように命じています。6歳以上の男子は約2400平方メートル、女子は1600平方メートルの国有田を担当し、稲作をする必要がありました。

もみ米とは玄米になる前の状態で、収穫したてで黄色い殻がまだついているものです。もみ米はお米の種なので、そのまま土に植えれば、また新たなお米を作ることができます。しかも、殻は硬く、乾燥・暑さ・寒さなど気候、虫やカビなどの影響を受けにくいのが特徴です。そのため、長期保存にも向いています。実際、この当時は種もみを直接田に撒き、実ったら穂の部分のみを収穫するというやり方が一般的でした。時代の流れとともに、稲作は種もみを発芽させて15cmほどに育った苗を植え、実ったときには根元からすべて刈り取るように変化しています。

奈良時代になると、いよいよお米による権力差が大きく目立つようになります。開墾した本人が永久にその土地を所有できる開墾田のはじまりです。その結果、田の国有化から国による支配を受けない荘園が急速に広まっていきました。自分で開墾すればすべて自分の土地になるのですから、収入が増えれば人を雇って開墾を進め、お米の収穫量を増やして財を成すの繰り返しです。しかし、お米を税金として納める制度は江戸時代末期まで続いており、明治初期から土地収益から算出した地価をもとに税金が計算されるようになっています。ただし、この時点では地主が小作人からお米で納税してもらう制度は依然として継続していたため、貧富の差がなくなることもありませんでした。

お米とおかずを分けて食べる食文化の誕生

日本で稲作が浸透した理由のひとつは、お米づくりに必要な条件と日本の気候がマッチしたことにあります。雨がよく降る梅雨、雨が少なく、気温が上昇する夏、この2つはほかの稲作農業が盛んな国の気候と共通する部分です。さらに、長期間の保存が可能で味もおいしいため、人気を得たといえるでしょう。縄文時代から弥生時代にかけて人口増加が加速したことからもわかりますが、お米は栄養価が高く、栄養不良も予防できます。

日本のお米はジャポニカ米というもので、丸っぽい形をした米粒で粘り気があり、甘めなのが特徴です。何も味付けをしなくてもおいしいことから、飛鳥時代頃に和食という食文化が生まれたといわれています。弥生時代にはすでにごはんとおかずを分けて食事として出しており、お米を主食に貝や魚、山菜、キノコ、肉などをおかずとして食べていました。お米とおかずをバランスよく摂取することができたため、日本人の身体も著しく発達しています。

天武天皇によって肉食禁止令が発布されるまでは動物を狩り、その肉を食べていましたが、この法律によってそれはできなくなってしまいました。そのため、動物の肉ではなく魚、さらに大豆や米からたんぱく質を摂取するようになったものの、これらはそのまま食べるには味が薄く、物足りないことから出汁を使って味付けをする文化が誕生しています。これによって、ごはんとおかずの区別がしっかりとつくようになったといえるでしょう。また、食事の見た目にもこだわるようになったのもこの頃です。平安時代には人をもてなすための料理が振舞われるようになり、安土桃山時代には茶道の発展とともに懐石料理も生まれています。1日3食に分けて食事をするという習慣が定着したのは江戸時代頃だったとされています。

さらに、日本人だけではなく、世界的に人気が高い握り寿司や巻き寿司もお米を使った料理ですが、こちらも江戸時代頃に考案されました。それ以前は、フナ寿しのようなものが食されています。フナ寿しは内臓を抜いたフナを長時間塩漬けにしたものをごはんとともにさらに漬け、馴れさせたものです。

お米農家の人口が減少している日本

農林水産省の「令和2年産水稲の作付面積及び予想収穫量(10月15日現在)」では、日本のお米の自給率は毎年減少傾向にあることがわかっています。主食として生産されている水稲の作付面積が平成20年には約160万ヘクタールありましたが、令和2年では約137万ヘクタールと23万ヘクタールも減少しました。これは日本の1人あたりの米消費量が最も多かったのが昭和37年で、それ以降は減少の一途を辿っていることが原因のひとつです。事実、昭和37年当時の1人あたりの米消費量が年間118kgだったのに対し、平成30年は53.5kgと半分以下にまで減っています。

また、農業をしている人口の約70%が60代となっており、若者の都市部への流出が大きな要因となっていることも稲作農家の減少につながっているといえるでしょう。日本でもさまざまなものがIT化される時代になり、将来的な需要もあると考えられています。そのため、若者の目も自然とそういった職業に向けられる傾向があります。稲作農家は身体を使った肉体労働の面が強く、自然災害などでせっかく栽培していた稲の多くが収穫できない状態になるケースもないとはいえません。そのため、苦労をしても安定的な収入に結びつかないのではという不安が大きいことも農業離れの原因になっているようです。

こういった現状から、日本では稲作農家を増加させるためのさまざまな工夫が行われています。たとえば、耕作者がいない土地を借り受け、その土地を農地として活用する人に貸し付ける農地バンクもそのひとつです。ほかにも、農家として法人化したり、経営拡大による生産効率のアップ(=利益率アップ)をしたりと安定した収入を得るためのアドバイスもされています。将来的には、農業にICT技術を導入することも予想されており、若者が自身の技術を有効活用できる場面も増えていくでしょう。

現状として、ハウス栽培では施設内の環境を一括管理できるシステムが導入されたり、クラウドシステムを導入して農業用機械と連動させることで作業効率を上げたりといった取り組みが行われています。市街地に在住しながら、郊外の農地を借りて稲作をする通勤農業という形も生まれました。今後稲作農業に携わる人が増加することが望ましいですが、人手不足のなかでも効率的に生産できる仕組みを作っていくことが期待されています。

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